武豊港(衣浦港)の歴史 開港により隆盛を極める

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ページ番号1002362  更新日 2022年10月21日

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国内有数の港としての道を歩む

写真:沖に向かって造られた桟橋

武豊港が一躍脚光を浴びることになったのは明治18年。東京と大阪を結ぶ鉄道建設のための資材陸揚げ先として、大型汽船が安全に停泊できた武豊港が選ばれた。沖に向かって、長さ約145m、幅約6mの桟橋が造られ、輸出入の基地となり、取扱貨物量は増加の一途をたどった。

陸海軍連合大演習

写真:知県武豊湊海陸大演習之図

明治20年に国内初となる陸海軍大演習、明治23年には武豊から半田、名古屋にかけて陸海軍連合大演習が、ともに武豊港で行われました。
写真は、明治23年3月に東京で印刷発行されたもので「愛知県武豊湊海陸大演習之図」と題され、明治天皇を中心に、時の陸海軍高官の名も列記された貴重な錦絵です。


写真:鳳翔閣

明治20年、国内初となる陸海軍合同演習が武豊港で行われました。天皇・皇后両陛下が行幸啓され、大演習を天覧されました。当時、両陛下が行在所として利用するために建設されたのが、和洋折衷様式の鳳翔閣です。鳳翔閣は、長尾山(現在の役場がある付近)に建築され、元帥伯爵東郷平八郎が書いたとされる石碑が建物の前にありました。この石碑は現在、役場庁舎前庭に移設されています。

満を持して開港を迎える

写真:明治30年ごろの油送船

輸出入の基地として、商船や軍船でにぎわうようになった武豊港は、港も順調に整備された明治32年、愛知県下初となる開港場(外国との貿易港)に指定されます。海外から石油、石炭、穀物などが輸入され、武豊線、東海道線等を経由して、中部地方各地に輸送されました。

※写真は明治30年ごろの油送船


写真:当時の味噌蔵

海外から輸入した大豆や塩を原料とする、みそ・たまりなどの食品産業が飛躍的に成長しました。
窯業や織布などの製造業も盛んとなり、武豊線の開通と武豊港の開港により、武豊町の産業は発展し、地域住民の生活に大きな変化をもたらしました。

※写真は当時の味噌蔵の様子(現在の南蔵商店付近)

最盛期には全国12位の貨物量を記録

写真:大正時代の汽船

開港と同時期に大阪税関武豊支署が設置され、所明治34年にはライジングサン石油(現在の昭和シェル石油の前身)油槽所が武豊港に開業するなどし、武豊港は発展を続けます。昭和8年には、輸出入貨物量が全国優秀港200の内、第12位にランクインしました。

※写真は大正時代の汽船


写真:だんべ船から荷物を降ろしている様子

沖に停泊する汽船から荷受けする「はしけ船」や「伝馬船」が活躍しました。

※写真はだんべ船から荷物を降ろしている様子

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