武豊線の歴史 開通までの道のり
平成28年に開通から130年を迎える「武豊線」。開通当初から現在を比べると、駅の新設・移転・廃止が行われ、蒸気機関車がディーゼル車になり、電化されました。時代とともに、その姿を変えてきた武豊線の歴史を振り返ります。
※写真は武豊港駅~武豊駅間を走る列車
国内第一号は新橋-横浜間
武豊線の前に、日本における鉄道の歴史を振り返ります。
明治5年に、新橋‐横浜間が開通し、国内第1号となる鉄道路線が誕生しました。明治7年には、大阪‐神戸間が開通し、関東・関西方面の鉄道整備が着々と進められました。
中山道?東海道?
明治2年にはすでに、関東と関西を結ぶ計画がありましたが、中山道を通すか、東海道を通すかは未決定でした。
当初は、中山道を通す案が採用されました。その理由は、
- 東海道は輸送手段(船等)が発達しているため、鉄道利用者が少ない
- 防衛上の点から、攻撃されやすい海側(東海道)ではなく、山側(中山道)を採用した
などの説が有力と言われています。
※上の水色が中山道
※下の黒色が東海道
順調に工事は進められましたが、中部地方の山岳工事の時に、ある問題が発生しました。
中部地方の山々を切り開くためには、
- 多くの労働力と費用が必要
- 当時の技術では工事が難航
- 完成までに長い年月を要する
これらの理由により、明治19年7月19日、東海道を通す案に正式に変更・決定されました。
四日市?半田?武豊?
話が多少前後しますが、かくして、関東・関西を結ぶ路線は東海道に落ち着きました。
武豊線は、中山道が候補地であったときからすでに、建設資材を熱田へ運ぶ資材運搬線として、整備が進められていました。
しかし、すんなりと武豊に決定したわけではありません。イギリスから船で資材を輸入することもあって、当初は、大きな港を持つ四日市・半田が候補に挙げられました。ところが、ここでも問題が発生…。
四日市の問題点
- 工費が高い、工期が長い
- 木曽三川に橋を建設する必要がある
半田の問題点
港の水深が浅く、大型船停泊には不十分
武豊は…
- 海も穏やか
- 水深もそれなりに確保できる
- 海運業が盛ん
- 黒鍬者(くろくわもの)※が多くいる
※黒鍬者:土木工事の職人で、武豊線に不可欠な存在
これらの条件と、地元の要望力、当時の鉄道局長・井上勝が政府へ提出した上申書などにより、武豊と熱田を結ぶ資材運搬線建設が決定しました。
※写真は武豊線の起点となった桟橋
工期は7か月?!
晴れて、武豊線建設が決定し、武豊‐熱田間の大工事が始まり、黒鍬者の存在もあって、順調に進んだ工事は、7か月足らずの驚くべき早さで完了しました。
資材運搬線からの脱却
完成間近の明治19年2月に、井上局長は再び上申書を、伊藤博文内閣総理大臣に提出します。その内容は、「武豊線は資材運搬線として、武豊港から資材を揚げ、武豊線で熱田まで運びますが、熱田からの帰りの列車は空車であります。1・2両の客車を連結しても、運行に支障はありませんので、許可を出してください」というもので、提出から2日後に即認可され、旅客車としても運行することとなりました。
いよいよ開通
明治19年3月1日、武豊線開通。
駅のホームには、建設に関わった多くの関係者が集まり、新しい時代の幕開けを見届けました。7時ちょうどに、高橋善一駅長の合図により、武豊駅発の1号車が出発しました。機関士が汽笛を鳴らし、ゆっくりと列車は進み始め、黒煙を吐きながら、武豊駅を後にしました。記念すべき1号車を見ようと、沿線には多くの人が集まり、歓声を上げて、列車に向かって手を振っていました。愛知県下初の鉄道が武豊の地に誕生しました。
※写真は大正時代の武豊駅
当時の記録
- 本数は1日2本
(武豊7時00分発と16時00分発) - 表定速度は時速18.9km
- 武豊から熱田までの所要時間は1時間45分
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